私は夕食の支度をしながら、宗司にどう妊娠を知らせようかとワクワクした。
宗司が帰宅したら、まずは食卓に座ってもらおう。 そして「話があるの」と切り出し、レディースクリニックでもらった「妊娠届出書」をテーブルの上に取り出し、彼に見せよう。私はそう考え、プラン実行に向け、夕食の支度に勤しんだ。
きっと宗司は驚くだろう。
まさか私が妊娠するなんて。 そう思うに違いない。 でも、彼はきっと喜んでくれる。 私はそう信じて疑わなかった。 なぜなら最近の私たちは、なんだかとても「良い雰囲気」だったから───。 * * *三年という期間限定で始まった偽装結婚だったが、文字通り一つ屋根の下で寝食を共にすると、次第にお互いの距離が近づいた。
夫の宗司は、最初はとても冷たかった。 しかし、今はとても親しくしてくれて、会社に行く時は「行ってくる」と声を掛けてくれるし、帰ってきたら「ただいま」と言ってくれる。夫婦なら当たり前のこうした言葉のやり取りも、結婚した当初の私たちにはなかったのだ。
それが今では私が夕食を作ると「美味しい」と言って食べてくれる。
洗濯や家の掃除をすると、最初は「そんなことはしなくていい。俺たちは本当の夫婦じゃないんだ」と冷たかったが、今では「ありがとう」とお礼を言ってくれる。 下着を私に洗濯されるのは今でも少し恥ずかしいようだけど、それでも徐々にこうしたことも任せてもらえるようになった。 まるで本当の夫婦の様に───。だから大丈夫。
私は自分に言い聞かせる。 宗司はきっと喜んでくれるはず。 * * *夕食の支度を整えた私は宗司の帰りを待った。
しかし、二十一時を過ぎても宗司は帰宅しなかった。
でも、これはよくある事。
宗司は父親の跡を継ぎ、大手企業の杵島グループの社長に就任したばかり。 日々多忙で、帰りが日付を跨ぐこともあれば、会社に泊まり込むことも珍しくない。私は辛抱強く彼の帰りを待った。
しかし、その後、二十二時を過ぎても宗司は帰らず、二十三時も過ぎてしまった。
私は眠気に襲われ、ついウトウトとし始めたが、その頃になってようやく車の音が聞こえてきた。
宗司の車の音だ。帰ってきた。
私は慌てて玄関に向かう。私が玄関の前に立つと、しばらくして宗司がドアを開けて入ってきた。
私は弾む声で「お帰り!」と出迎えた。
しかし、そんな私に宗司は「ただいま」も言わず、開口一番に「まだ起きていたのか?」と言い放った。少し不機嫌そうな語気に私はやや怯んだが「今日は話したいことがあって……。だから帰ってくるのを待っていたの」と伝えた。
私は宗司の反応に期待しつつ、彼の言葉を待ったが、宗司は「俺も話がある」とのことだった。
私は疑問に思う。
宗司が私に話? なんだろう?
そのことが気になったので、私は自分が妊娠したことを早く伝えたかったが、まずは彼の話を聞こうと「宗司さんからどうぞ」と先を譲った。
すると宗司は一通の書類を取り出し、私に突き付けた。
「これにサインしてくれ」
そう言われて私は書類を受け取ると、それが何の書類であるかを確認する。
「───え? これって……」
私は目を疑った。
書類に書かれていた文字はそれほどまでに衝撃的だった。「離婚届だ。俺の名前はもう書いてある。あとは充希がサインするだけだ」
* * *突然の出来事に私は取り乱す。
「ど、どうして!? どうして離婚なんて突然───!?」
訳が分からず私は狼狽えた。
「彩寧(あやね)が戻った」
「……え───?」
宗司の口から出された名前に私は目を見開く。
「あ、彩寧が戻った……? ど、どうして……?」
* * *私の父・大和田 毅(おおわだ つよし)は大手企業の大和田グループの社長だ。
父はかつて私の産みの母である忽那 碧(くつな みどり)と相思相愛で、大恋愛の末、結婚前に私を儲けていた。
母・忽那 碧の妊娠が判明した時、父は母との結婚を望んだが、二人の結婚は許されなかった。 大手企業の次期社長だった父は、母の家柄が父と釣り合っていないと周囲から結婚を反対されたのだ。父は結婚を認めてもらおうと、一年近く周囲を説得し続けたが、いよいよ私が産まれても父と母の結婚は許されなかった。
ついに父は次期社長の座を捨てて母と一緒になることを決意する。
しかし、それは私の母───つまり忽那 碧に止められた。 私の母は父が将来を捨ててまで自分を選ぼうとする姿が辛かったのだという。 自らが重荷となることに責任を感じた母は、父に別れ話を申し入れ、二人は熟慮の末、別々の道を歩むことを選択した。そして私は母ではなく、父に引き取られた。
父が私を引き取ると宣言すると、周囲は猛烈に反対した。
しかし父は私を引き取ることだけは絶対に譲らなかった。 それは愛した女性と結婚できなかった父の、最後の抵抗で、そして意地だった。 周囲はやむを得ず父が私を引き取ることを了承した。その後、父は周囲の勧めで旧華族家の篠原 真紗代(しのはら まさよ)と結婚し、そして二人の間に娘が誕生した。
こうして私には「腹違いの妹」ができた。 それが彩寧だった───。そしてそんな彩寧と宗司は、短い期間だったが交際をしていた。
それは大和田グループと杵島グループの絆を深めようと、政略結婚の話が持ち上がった時の事だった。
その際、彩寧の母・真紗代は、自分の娘を結婚させようと、彩寧を宗司に猛烈にプッシュしたのだ。その甲斐があって、彩寧と宗司は交際を始めた。
しかし、その直後に事件が起こる───。
それは私の父・大和田 毅と真紗代の離婚騒動だった。
彩寧の母・真紗代は派手好きの浪費家で、ホストクラブに通ったりと男遊びも盛んだった。
そこまでは看過の範疇だったが、しかしついに浮気までしていたことが発覚し、ついに父から離婚を言い渡され、大和田家を去ることになったのだ。その際、彩寧も真紗代に引き取られ、それと同時に彩寧と宗司の交際も終了していた。
そしてその後、私の父と宗司のお父様が、今一度、政略結婚について話し合い、私が宗司と結婚することになったのだが、あれから二年───。
彩寧の姿を見ることは一度もなかった。
それなのになぜ、今になって彩寧が突然戻ったのか?
私は離婚届と彩寧の登場に、頭がパニック寸前になった。
------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
「お、おお? おおおおお……」 宗司さんが双子の赤ちゃんを抱いて、感動に言葉を失っている。 無事、出産を終え、ぐったりとしていた私は横目でその光景を眺めた。 宗司さんはとても嬉しそう。よかった。でも宗司さんは赤ちゃんの抱き方に慣れていないみたいでぎこちない様子。とても危なっかしい。宗司さん、どうか赤ちゃんを落とさないでね。「充希、ありがとう。本当にお疲れ様。俺たちの子どもは女の子と男の子の双子だ。二卵性の双生児だったんだ」 宗司さんはそのことを何度も口にした。 それだけ喜びが溢れてしまっているんだと思った。「まさか俺が離婚届を突きつけた日が、充希がこの子たちの妊娠に気づいた日だったとは知らなかった。なんて日に俺は離婚届を突きつけていたんだ。本当にすまなかった。 でもこの二人の鼓動に気づかされた。俺は充希が好きだ。子どもの頃、初めてあったその時に───あれは大物政治家の政治資金パーティーだったが───その会場で、とても凛とした姿で、堂々と大人たちに挨拶をして回る充希の姿に俺は目を奪われていた。なんて大人びた女の子なんだ、と。充希と俺が同い年だと知って本当に驚かされたよ」「私も、その時のことは本当によく覚えている。あれは父に言われ、そうするよう繰り返すだけの、ただの「行為」でしかなかったけど、周囲の大人たちが私を褒めてくれるので、嬉しくてそうしていたの。でもそれはただのロボットで、自分じゃない。そう気づかせてくれたのは宗司さんだったのよ。あの瞬間に私は籠の扉を開けられ、外に飛び立った小鳥のように解放されたの」 宗司さんは双子の赤ちゃんを私にも抱かせてくれる。 そして双子を抱く私を、宗司さんは赤ちゃんも含めて抱き締めてくれた。 ───赤ちゃんの鼓動。 ───そして宗司さんの鼓動も私に伝わる。 ───それはもちろん私の鼓動も赤ちゃんに、そして宗司さんに伝わることを意味している。 赤ちゃんたちの二つの鼓動。 さらに私と宗司さんの二つの鼓動。 二つの二つの鼓動に私は気づかされる。 ───とても幸せだ。 言葉にすると、とてもシンプルだけど、今までわかったつもりでいた「幸せ」という言葉とは、今はまったく意味が違ったものになったことに私は気づかされた。「これから幸せな家庭を築こう、充希。俺たち二人で、そして子ど
───数か月後。 私はついにその時───臨月を迎え、幸恵のレディースクリニックに入院をしていた。 ───それは正午を少し回った頃だった。 レディースクリニックの院内が俄かに騒がしくなり始める。 産婦人科医のお医者様や看護師の皆さんが手際よく出産の準備を開始した。 そして分娩室の明かりが灯される。 ───いよいよだ。「さ、幸恵部長。俺はどうしたらいい? 夫が妻の出産に立ち合うとかどうするんだ?」 宗司さんが珍しく幸恵の後をついて回る。 いつもなら、どちらかというと幸恵が来たら逃げるように距離を保っていた宗司さんが幸恵に自ら近づくなんて、なんだか不思議な光景。 私はその景色が珍しくて、ただただ眺め続けた。「宗司! うるさい! あんたは外! 待合室でコーヒーでも飲んで座っていて!」 幸恵が宗司さんを閉め出す。 宗司さんが可哀想。ごめんね、宗司さん。すぐに終わるから少しだけ外で待っていてね。「充希、それじゃあ俺は外にいるから。扉のすぐ外にいるから。何かあったらすぐに俺を呼ぶんだ。呼ばれたところでどうすればいいのかわからないが、とにかく俺を呼ぶんだ」 宗司さんはそう言って私の手を握る。 私は宗司さんの手を握り返し「大丈夫よ、宗司さん。心配しないで。出産なんて多くの人が経験している人類の営みよ。当たり前のことなんだから大丈夫。それに幸恵が私のお産を担当してくれるんだからなんの心配もいらないわ」と、微笑んで見せようとしたが───。「───ッ! ───う、ぐッ! ───く、うッ……!」 私は猛烈なお腹の痛みで、そんなことをする余裕は全くなかった。 なんなのこの痛みは……。 痛い。本当に痛い。 これが陣痛というものだということはわかっているけど、この痛みは本当にこれであっているの? 私の場合、双子の出産だから、通常の出産と違って痛みが二倍になっているのかしら? 幸恵は一人の出産も双子の出産も痛みは一緒よと言っていたけど、世の中全てのお母さんがこの痛みを経験しているなんて信じられない。 ベビーカーに子どもを乗せて、街を歩くお母さんの姿をよく見かけるけど、皆さんこの痛みを経験し、乗り越えられているというの? 本当に? こんな痛みを経験しているのに、よく何事もなかったように普通にしていられ
宗司先輩が退院する。 いてもたってもいられず、私は病院にやって来たが、充希と幸恵部長がいるので宗司先輩に近づくことはできない。 でも、それでもいい。 宗司先輩が退院する元気な姿を見られただけで、私は満足だ。 ───私もあの輪の中にいたい……。 ───私も一緒に宗司先輩の退院を祝福したい……。 そんな気持ちに駆られる自分を少し感じたが、私は頭を振ってそんな考えを振り払った。 ───充希と一緒にそんなことはできない。 ───充希と一緒にそんなことはしない。 ───充希にだけは……。充希にだけは……。 私は無意識に手を強く握った。 爪が喰い込み、自分で自分の手を傷つけてしまいそうだった。「それ以上は強く握らない方がいい。手に傷がつくし、爪も痛む」 急に声をかけられ、私は身体を強張らせるほどに驚いた。 振り向くと一人の医師が私のすぐ後ろに立っていた。 胸のネームプレートには種村 崚佑と書かれている。 ───充希と一緒にいた男性医師だ! 私はこの医師のことをすぐに思い出した。「君のことは知っている。よくお見舞いに来ていた」「な、なんですか、あなたは。急に声をかけないでください」「僕は種村 崚佑。この病院の産婦人科医」「そ、そんなことを聞いているんじゃないんです。見ず知らずの人なのに、急に話しかけないでくださいと言っているんです」 なんなのこの男は。 初対面の人に対する遠慮とか、距離感っていう気遣いが欠如しているの?「君は道端に捨てられ、雨に濡れる子猫みたい。必死で叫び、鳴き声をあげているけど誰も助けてくれない。その事に怒りをあらわにしているけど、それは自分を守るため。そして自分を守るためにそうしなければならない自分が嫌で、ますます怒っている。 君が欲しいのは、とても些細な幸せ。誰か一人でも自分に寄り添ってくれる人が欲しいだけ。でもそんな些細な望みが叶えられない自分を悔しく思っている。 それに……。 ……君が自分に寄り添って欲しいと思っている人を、君は一番に憎んでいる。 ───その相手は恋人か両親、または兄弟姉妹……。 誰かはわからないけど、かなり拗れている。そんな拗らせ方じゃ、望むものはますます手に入らな
そして、いよいよ宗司さんが退院をする日を迎えた。「忘れ物はない? 退院の手続きもちゃんと済んでいるわよね?」 母・碧は心配そうだった。「大丈夫。忘れ物はないよ。退院の手続きも私がちゃんと済ませたし、お会計もしたから、あとは家に帰るだけだよ」 空っぽになった病室を見て、母・碧は少し寂しそうだった。「充希は宗司さんと二人の家に帰るのよね? 私の家に置いてある荷物はどうする? あとで取りに来る?」「もともと何も持たずに家を飛び出して、そのままお母さんの家に入れてもらったから、荷物なんて歯ブラシとちょっとした着替えくらいだし……。でも後で片付けも兼ねて取りに行くから、少しの間だけ置いておいて」「また、もしもの時の為に、そのまま置いておいてもいいのよ?」 母がそう提案してくれたが、私はしっかりと首を振った。「もう二度と、そういった「もしもの時」はないようにします。私は絶対に宗司さんの手を離しません。宗司さんのもとを離れません」 私がそう述べると、母は「確かにそれもそうね」と納得してくれた。「お母さん、お世話になりました」 宗司さんが母・碧に頭を下げる。「そして、すみませんでした。自分が至らぬばかりに充希を悲しませてしまいました。もう二度とこのようなことはしません。必ず充希を守り、幸せにしてみせます」 母は宗司さんの手を取ると、宗司さんに頭をあげさせた。「宗司くん、自分を責めないで。夫婦なんだから、そりゃ、いろいろあるわよ。私は宗司くんと充希についてなんの心配もしていません。二人は子どもの頃から本当にお似合いのカップルだったんだから」 子どもの頃の話を持ち出されて、私と宗司さんは少し気恥ずかしく思った。「宗司くん、こちらこそ充希を宜しくお願いします。私が言うのもなんだけど、充希は本当に立派な娘です。自慢の娘です。私の大切な娘です。だからどうかどうか幸せにしてやってください」 そして母は私の手を取ると、宗司さんの手に重ねた。「充希も、しっかり宗司くんを助けてあげてね。支えになってあげてね」「うん。任せて、お母さん。もう二度と心配をかけるようなことはしないよ」「それから産まれてくる子どもたちのこともしっかり頑張るのよ」 最後に母がそう言うと、にわかに宗司さんが慌てだした。
「充希、寒くない? ブランケットをもう一枚使う?」 晩秋の候、私と幸恵はキャンプ場に来ていた。 幸恵は近頃、アウトドアに傾倒し、しばしば日帰りキャンプに出かけていた。 いつの間にかキャンプグッズもたくさん買い揃えられ、とても充実したアウトドアを楽しむことができるようになっていた。 私は、おしゃれで便利なキャンプ道具を手に取り、幸恵が傾倒して、こうしたキャンプ用品を買い集める気持ちに共感していた。「ありがとう、幸恵。大丈夫だよ。このキャンプ用のブランケットがとても温かいから。このブランケットはすごいわね。軽くて薄いのに、風も通さず、肌触りも柔らかで、キャンプだけじゃなく、オフィスでも使いたいと思えるくらいだわ」 私がそう絶賛すると、幸恵は自分のことを褒められているように喜んだ。「そうなの、そのブランケットは断熱アルミシートが入っているから保温性が高いの。それに水も弾くから急な雨に降られても、そのブランケットを被れば雨を凌げるんだから」 嬉しそうに説明をしつつ、幸恵は慣れた手つきで焚火の支度を進める。「さあ、それじゃあ、充希。「例の物」をお願いね」 すっかり焚火の準備を整えた幸恵は、後はいよいよ点火をするだけとなった。 その段になって、幸恵は私に「例の物」を用意するよう促す。 それは、私がサインをした離婚届だった。 私は封筒から離婚届を取り出すと、改めて自分のサインを見返した。 当初は、もう二度と見たくないと思ったサインだったが、今は私にとって、このサインは重要な意味を持つようになっていた。「このサインは私の弱さの象徴だわ。このサインを見ていると、過去の自分を見ているように思える。それは誇れる自分じゃないけど、そうした自分があったからこそ───そうした自分が嫌だからこそ、自分を成長させようという気持ちが湧いてくるわ」「それはちょっとわかるわ。誰だって恥ずかしい思いや悔しい思い、他にも失敗とか苦い経験を持っている。問題は、そうした後悔に押しつぶされない事ね。逃げずに向き合い、乗り越えることができれば、また一つ、自分を成長させることができるもんね」 私と幸恵は、少しの間だけ二人で余韻に浸るように私がサインした離婚届を眺めた。「さあ、それじゃあ、そんな昔の弱い充希とはお別れをしましょう」
幸恵部長に突き飛ばされた私は、その場に倒れ込む。 ───相変わらずの馬鹿力で本当に忌々しい。加減というものを知らないのかしら、この女は。 私は憎らしく幸恵部長を睨みつける。 充希は離婚届にサインをしたのよ。自らの意志で宗司先輩の妻の座を放棄したのよ。それなのに何故───何故、みんな充希を庇い、充希を助けるの? ───幸恵部長もそう。 ───宗司先輩の秘書もそう。 ───受付の女もそう。 皆、どうして充希の味方をするの? 正論を述べ、正しいことをしているのは私よ。私こそが正義なのよ。 それなのに何故───。 充希と幸恵部長は去り、警備員も持ち場に戻った。 私は一人、社長室に取り残される。 ───誰も私を気にかけてくれない。 ───誰も私に手を差し伸べてくれない。 突き飛ばされ、倒れた私に見向きもしないで、皆、私の前からいなくなる。 ───どうして……。 でも自己憐憫に浸ってなんかいられない。沈んだ気持ちでいたって何も解決しない。 これまでもそうだった。 私は誰からも愛されず、誰の助けも得られなかった。 だから自分で解決するしかない。自分一人の力で生きていくしかない。 そして周囲を───私を無視し、私の前を素通りしていった者達を見返してやるんだ。 目に涙を浮かべていた私は、あやうく零れそうになった涙を拭い、立ち上がる。 泣いたりなんかしない。私が泣いたって、誰も助けたりしてくれない。誰も優しい言葉をかけてくれたりなんかしない。誰も私の涙を拭ってなんてくれない。私は自分で自分を愛し、自分一人で生きていくしかないのだから。 自らを取り戻した私は社長室を出る。 するとすぐに声をかけられた。「どうした? 何かあったのか?」 私は少し驚きつつ、声の相手を振り返る。「あ、あなたは───」 私は声の主が誰であるかがわかり、さらに驚いた。「あなたは、杵島 巧三会長───!」 それは宗司先輩のお父様で、杵島グループの杵島 巧三会長だった。 因みに今は、入院中の宗司先輩の代わりに杵島グループの社長として会社の運営を担っている。 とはいっても、宗司先輩が入院する前───宗司先輩が社長